真言宗について

真言宗は平安時代、弘法大師(空海)が中国(唐)にわたって密教を学び、それを日本に伝えたことが始まりです。

「真言」とは、仏様の「ことば」を意味していますが、この「ことば」は、人間の言語活動では表現できない、この世界のさまざまな事象の深い意味、すなわち隠された秘密の意味を明らかにしています。
弘法大師は、この隠された深い意味こそ真実の意味であり、それを知ることのできる教えこそが「密教」であり、真言宗は、仏と法界が衆生(しゅじょう)に加えてる不可思議な力(加持力・かじりき)を前提とする修法を基本とし、それによって仏(本尊)の智慧を悟り、自分に功徳を積み、衆生を救済し幸せにすること(利他行・りたぎょう)を考える実践的な宗派なのです。

真言宗は「曼荼羅(まんだら)思想」が中心となっています。

曼荼羅には仏様の智慧を表す「金剛界曼荼羅」と、慈悲を表す「胎蔵界曼荼羅」があり、たくさんの仏様が描かれています。
そして、その中心にいらっしゃるのが「大日如来」です。
大日如来様は真言宗の根本となる仏さまで、すべての徳を備えた仏さまです。
その一つ一つの徳を分担し、姿を変えて私たちを救いに現れるのが、阿弥陀様であったり、お不動様であったり、お地蔵様、観音様で、すべての仏さまは大日如来様の一つのお姿であると考えらています。

様々な物事には、情報に捉われることなく広い視野で正しく物事を見極めると、すべてに共通する大きな本質があります。それが大きな円の中心ですべてを丸く包み込んでいる大日如来様です。
また、物事によっては状況によって一つ一つ違った側面があります。その状況に合わせて現れてくるのが色々な仏様です。
ですから、真言宗のお寺では様々な仏様がお祀りされています。そこにはすべての宗教・思想なども包み込む大きな調和の世界があるのです。
このように、完全に調和の取れた世界が、真言宗の曼荼羅思想です。そして「曼荼羅」には仏様だけでなく、衆生(生きとし生きるもの全て)が描かれ、私たちもその中に含まれています。みんな違う生ですが、曼荼羅の世界ではみんなつながっていて、不思議なご縁を持って生きているのです。

また、真言宗では「即身成仏」を説きます。
普段私たちは、身体を使って行動し、言葉を口に出して想いを伝え、心で色んなことを感じ判断しています。この三つの活動は仏様も同じで、生きる上で大切な行いです。
本来私たちは、仏様と同じ心を生まれながらに持っています。しかし、日々の忙しい生活の中で、なかなかこの心は埋もれて出てきません。その心を花咲かせ、仏様と同じように行動と言葉と心を清らかにすることで、生まれてきたこの身そのままで仏様になることが出来るという教えです。
真言宗での修業のあり方(修法)は精神を一点に集中する瞑想です。
特徴としては、仏様(本尊)の身(身体)と口と意(心)の秘密のはたらき(三蜜)と行者の身と口と意のはたらきとが互いに感応(三蜜加持)し、仏様(本尊)と行者の区別が消えて一体となる境地に安住する瞑想を言い、弘法大師はこのあり方を、仏が我に入り我が仏に入る、という意味で「入我我入(にゅうががにゅう)」と呼んでいます。

真言宗では、正しく教えを伝えるため、相手の手を取り、言葉だけでなく、心や身体の感覚、全身をすべて使い、師僧より弟子に直接教えを伝えなければいけません。
これは「真言密教」が大日如来様をはじめとし、インド・中国・日本へと伝わり、現代に至るまで変わらずに、途切れることなく脈々と続けられ受け継がれています。

平安時代より千二百年以上続く真言宗は、世界の平和、日本国の安泰、人々の不安を退け安心を得ることを願い、多くの先師よりその教えを受け継ぎ活動してきました。
理性と感性を大事にし、それを正しい行動に移し実践することで、皆さまと共に争いのない穏やかで幸せな世界を作ることが、真言宗の大きな目的であり、その教えです。

追善供養のこころ

死はすべての終わりか?

ひとりの人が亡くなってしまうということは、まことに悲しいことです。ことに家族・肉親や、格別親しかった人が、ある日忽然と目の前から姿を消してしまい、二度とふたたびその笑顔を見ることも出来ず、なつかしいその声を聴くことも出来なくなってしまうということは、人生においてもっとも大きな悲しみであります。
「死んでしまえば一巻の終わり」と言いますが、確かに〈死〉によってその人の一生は幕を閉じます。

しかし、人のすべてがその〈死〉とともに終わり、すべてが消え去ってしまうのか、あるいはその人の死後も何か続いていくものがあるのかどうか、これは古今を通じての課題でありました。
ただこのことは、残念ながら、だれもが自分自身で実験的に実証することのできないことであります。はたして〈死〉によってその人のすべてが終わってしまうものでしょうか。
いや、故人の“いのち”もその“こころ”も、故人をほんとうに理解し、慕わしく思う人たちがいるかぎり、その人たちによって受け継がれ、その人たちのうちに生き続けていくと考えるのが、大人数の人々のいつわりのない素朴な感情ではないでしょうか。

のこされたものの気持ち

こうした気持ちをはっきりした形にあらわし、その思いを一層深めていきたいと願うのはだれにも共通する自然な感情であります。
さらに、のこされたものとしては、どんなことでもしてあげて、故人のやすらかな冥福を心から願いたいのが、いろいろご恩をいただいた有縁のものとしての当然の気持ちでもあります。
仮に、故人が生前数々の悪事をかさねた極悪人であったとしても、いや、そうであればなおのこと、その死後は少しでも安らかであってほしいと願うのが人情というものではないでしょうか。
こうした、だれの心にもある、理屈をこえた素朴でゆかしい宗教心のあらわれとして、亡くなった方々への追善供養ということが仏教の教えのなかで、きわめて大切な営みになってきました。

深まる供養の意味

ところで、〈自分と他人〉というせまい分別をこえた、ひとつの大きな生命(いのち)を分けあって生きているもの同士というより高い立場に立てば、追善供養の意味も一層深められます。
それは、故人をこえた社会的な広がりのなかで、責任分担を果たすことにもなり、より大きな“生命のながれ”そのものへの供養ということにもつながっていきます。
さらにつきつめていくと、自分と他人との区別のない〈同体大悲〉や、どんな苦しみも代わって受けていこうという〈代受苦〉といった理想的なすがたにまでも高められます。

私たちのつとめ

万々のおもいや願いを心に秘めながら、ついにそれらを果たすこともなくして逝った亡き方がたになり代わって、その万分の一でもかなうよう自分自身の精進を願い、それを実行していくのは、のこされた私たちの大きなつとめであります。
そしてそれは、私たち一人ひとりが、またこの世でもそのものが、理想を実現するための一番確かな方法であります。
さらにそうすることこそ、私たちが生きていることに対する限りない感謝のしるしでもあるのであります。

追善供養のいとなみ

故人の忌日にあたり、お導師さまを迎えて、それぞれ有縁の御仏(十三仏等を本尊として御霊の冥福を祈ってご法事を営みます。
また、御仏の正しい教えを世の中に広めるために、お寺を立派にしたり、仏像や仏画をつくるお手伝いや、写経をしたり、お説教を聞いたり、お塔婆を建てたりなどの福徳を積み、ご縁のある人たちが飲食を共にしながら故人の思い出を語り合うなど、なごやかなつどいを持つことが、追善供養のいとなみです。

忌日 本地仏
初七日忌 ●不動明王
二七日忌 ●釈迦如来
三七日忌 ●文殊菩薩
四七日忌 ●普賢菩薩
五七日忌 ●地蔵菩薩
六七日忌 ●弥勒菩薩
七七日忌 ●薬師如来
百ヶ日忌 ●観音菩薩
一周忌 ●勢至菩薩
三回忌 ●阿弥陀如来
七回忌 ●阿閦如来
十三回忌 ●大日如来(金剛界)
十七回忌 大日如来(胎蔵界)
二十三回忌 般若菩薩
二十五回忌 愛染明王
二十七回忌 大日如来(金剛界)
三十三回忌 ●虚空蔵菩薩
三十七回忌 金剛薩埵
五十回忌 愛染明王
百回忌 五秘密菩薩